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豊穣な言語
山口仲美 |
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擬音語・擬態語の魅力は、なんといっても新しく造り出せること。普通の言葉と違って、どんどん造り出せる。
兵庫県の小学生は、小川の流れる様子をこう写した。「さら さるる ぴる ぽる どぶん ぽん ぽちゃん 川はいろんなことをしゃべりながら流れてゆく 音はどこまで流れていくんだろう」。新鮮な擬音語を使い、川底の段差まで感じさせる詩になっている。小学生でも巧みに擬音語を作り出している。いや、小さい子ほど既成の言葉にとらわれないので、擬音語・擬態語づくりはうまいかもしれない。二歳になる女の子は、鶏の声を聞いて「オエオー」と言った。大人には「こけこっこー」としか聞こえないのに。
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詩人の草野心平も、擬音語・擬態語をよく造る。
ぴるるるるるるッ
はっはっはっはっ
ふっふっふっふっ (「蛇祭り行進」)
後脚だけで歩き出した数万の蛙の様子をユニークな擬音語・擬態語で写し出す。蛙の口から吐き出される生暖かい息遣いまで感じられる。擬音語・擬態語は、こんなふうに場面に具体性と感覚性を与える。
草野心平の詩「生殖」は、次の一行からなる。
るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
蛙の交尾の時の低く奏でられる喜びの声をうつした擬音語と察せられるが、何十匹かの蛙が一斉に交尾をしている様子まで見えてくる。「る」という文字の視覚効果が加わったからである。
同じく詩人の萩原朔太郎も、斬新な擬音語を造っては詩に独特の雰囲気を与えている。
しののめきたるまへ
家家の戸の外で鳴いてゐるのは鶏です
声をばながくふるはして
さむしい田舎の自然からよびあげる母の声です
とをてくう、とをるもう、とをるもう (「鶏」)
「とをてくう、とをるもう、とをるもう」が、鶏の声を表す擬音語。夜と朝、闇と光の交代を知らせる鶏の声は、死と生の交代を知らせる声でもある。作者の魂は、「羽ばたき」をして起きようという意思を持つのだが、「一つの憂愁」が「臥床に忍び込」んで来て、「私の心は墓場のかげをさまよひある」いている。「とをてくう、とをるもう」は、そうした気分を担った擬音語である。
また、朔太郎は、空き家に響く柱時計の音を、「じぼ・あん・じゃん!じぼ・あん・じゃん!」と写す。目の前で錆ついた時計のぜんまいがほどけ、振り子が鳴るような臨場感がある。
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随筆家・小説家の幸田文も、擬音語・擬態語づくりの名人である。とりわけ、身体的刺激のある擬音語・擬態語づくりに長けている。
関東平野のひるさがり、見わたすかぎりの田園と桑畑、天も地もどぎどぎと光って、眼の向けどころもない上天気。 (随筆「申し子」)
「どぎどぎ光る」。「ぎらぎら光る」「ぎとぎと光る」なら、分かる。そうではなくて「どぎどぎ」なのだ。造り出された擬態語だが、強い光線が眼や肌を直撃しまとわり付くうるささを感じさせる言葉として効果を発揮している。身体的刺激をあたえる言葉なのだ。
薄気味わるくぞわりとして、おっかなおっかな聴けばまちがいだったが、染香の受けている傷手(いたで)がほんとうに惨めなものであることがわかる。(小説『流れる』)
「薄気味わるくぞわりとして」なのである。「ぞくっとして」とか「ぞっとして」が普通である。造り出された「ぞわり」は、気味悪さが上から覆い被さった感じが付け加わり、肌の刺激が増してくる。
宮沢賢治も、始終新しい擬音語・擬態語を生み出しては、インパクトのある童話を造っている。「クラムボンはかぷかぷわらったよ」(『やまなし』)と、不思議な感じのする笑い声を「かぷかぷ」と表現する。稲扱きの音は、「のんのんのんのんのんのん」。強弱をつけながら回転する機械が音を立てている現場に居合わせるかのような気分になる。「一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこ 変な楽隊をやっていました」(『どんぐりと山猫』)。手垢の付いていない擬音語「どってこどってこどってこ」が、不恰好だけれどユーモラスな楽隊を生き生きと感じさせる。
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擬音語・擬態語は、こんなふうに次々に新しく造りだせる。新しく造り出さなくても、ちょっと使い方を変えるだけで表現力が倍増する。
白ぽけた殺人者の顔が
草のようにびらびら笑ってゐる
(萩原朔太郎「酒精中毒者の死」)
「びらびら」は、普通は布などの薄いものが風にはためいている様子を表す。けれども、ここの「びらびら」は、殺人者の笑う様子を表す擬態語。使い方を変えただけで、いかにも薄っぺらで不気味な感じが出てきて、「びらびら」が命を吹き返している。
いい齢(とし)をしてつまらない男にぴちゃぴちゃするから、霜枯れたことになってるとこきおろす。(幸田文『流れる』)
「いちゃいちゃ」と言わずに、「ぴちゃぴちゃ」を使うと、男といちゃついている時の音まで聞こえてくる。ちょっと使い方を変えただけで、擬音語・擬態語は新鮮な言葉として蘇る。普通の言葉は、そうはいかない。ずらして使うと、すぐに誤用と言われてしまう。
こんなに豊かな表現力を持った擬音語・擬態語が日本語には溢れている。英語の三倍以上はある。感覚に訴え、具体性を与える擬音語・擬態語。日本語は、その魅力を存分に生かした文章作りができる豊穣な言語なのだ。
(『文芸春秋』2005年3月、特別版3月臨時増刊号に「豊穣な言語」と題して掲載されたものです。)
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