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Y先生のホントの気持ち
山口仲美 |
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埼玉大学に移ってくることになって、私が一番最初に出合ったのがY先生であった。しかも、最初から「変な人」として、Y先生は私の前に登場した。
私は、勤めはじめる前の年に、自分の研究室になるべき部屋に早々と案内された。案内してくれたのは、これまた「独り合点」の名人であるTさんであった。私は、空き部屋を来年度からの自分用の研究室だと思って、心を込めて掃除した。
掃除を始めて三時間経って、あらかた綺麗になったところに、妙に威張った先生が現れた。派手なネクタイを締めて、憤然とした顔で私に向かって大声でおっしゃる。
「あー、ここは、私の研究室になるところだ。学部長にも言ってある。私は、今いる研究室を空けろと言われたから、断った。だが、たびたび言われたので、今の研究室から一番近いここの部屋なら良いと言って、ここに引っ越してくることに決まっておる。」
「あれ、僕も山口さんの研究室はここだって、学部長に聞いたんですが…」
Tさんは懸命に述べ立てたが、年若のTさんがY先生に勝てるわけがない。私は、こうしてブラインドも、窓も、本棚も、床も磨きあげた研究室を、ハデハデの声デカのソックリカエリのYなる先生にまんまと奪われてしまった。私は、思った。「変な人が埼玉大学にはいる。こんな所で、私はやっていけるのだろうか?」 元の大学がそぞろ恋しくなっていた。
それから、埼玉大学に勤め始めた。教授会で、どでかい声で堂々と発言するのが、Y先生であった。威張った口調だが、発言内容そのものは、正鵠を射ていることが多かった。また、言い過ぎることもあったが、正直であった。私のY先生に対する思いは、少しずつ変化していった。
埼玉大学で一年を過ごし、ようやく慣れてきて、Y先生にも初めて年賀状を出した。「埼玉大学にも慣れて、楽しくなりました」と、書いた。すると、返事があった。
「埼玉大学教養学部みたいなところに慣れるのは、良くないことです。」
私は、耳を逆撫でするようなY先生の発言に、ムッとした。「埼玉大学教養学部みたいなところ」とは! 私の中で再びY先生は「変な人」の方の目盛りに傾いた。だが、妙に、Y先生の発言が気になった。言われたことが的はずれであれば、気にならない。だが、Y先生の発言は、真実を突いているところがある。Y先生の発言の真意は謎のまま、私の心の奥底に留まっていた。
そのうち、私も教授会で発言するようになっていった。教養学部の良いところは、自分の考えをいつでも自由に述べられることであり、私もそれを享受した。教授会での私の発言をY先生が気に入ってくれることもあった。そういう時は、教授会が終わると、Y先生は愛情溢れる笑みをたたえて私に近づき、「おお、仲美先生」と言って親愛の情を示してくれるのであった。
Y先生は、概して教養学部の女性教師に多大な関心と好意を抱いていらした。ご自身と全く異なる意見の女性教師に対しても、それは考え方の違いであると割り切り、蔭では愛情ある言葉を吐いていた。男性教師に対しても、面と向かって噛みつくわりには、蔭で悪口を言うことが少なかった。要するに、人間が大好きな先生であった。
こんなふうにY先生を観察していると、年賀状に記されたY先生の発言の真意がふと見えてきた。「埼玉大学教養学部みたいなところ」とは、「生まれ変わらなくちゃいけないのに、なかなか腰を上げようとしない」という意味だったのだ。実は、Y先生ほど、埼玉大学教養学部の将来を心配している人はいなかった。また、Y先生ほど、教養学部を愛している人はいなかった。だから、心配でならなかったのだ。Y先生は、われわれ教養学部の教師たちが、再生に本腰を入れるのを誰よりも待っていたのだ。
Y先生のホントの気持ちが、ようやく私たちに通じ始めたとき、Y先生は定年になられる。私は、寂しいと思う。そして、頑張らなくてはならないとも思う。
Y先生が私たちに残していくものは、かけがえのない大学を愛する心であった。
(『埼玉大学Y教授退官記念文集』2001年3月 掲載エッセイ)
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