敬語をこう考える(T)

山口仲美
日本人も間違えます!
 留学生と接していて気になることの一つが敬語の問題です。たとえば、私の研究室の入り口にはバッグが置いてあり、その中にレポートなどの提出物を入れるようにしてあります。ある時、そこへ台湾の留学生がお土産を入れてくれました。カラスミが入っていて、美味しかったのですが、そこに「これはうちの両親が先生に差し上げたお土産である。つまらないものだが、どうぞ」と書いてありました。思わず、吹き出してしまいました。「つまらないものだが」と「どうぞ」との落差がおかしかったのです。
 この学生は優秀なのに、それでも敬語は最後まで難しかったようです。留学生たちは、敬語に悩ませられますから、敬語については日本人よりも敏感です。大学院の授業で、留学生たちは、日本人も敬語を間違えるって指摘するんですよ。
 たとえば、「電車に乗っていたら、車掌が『忘れ物いたしませんようご注意下さい』って言いました。『いたす』は、謙譲語ですからお客さんには使いませんよね。」
なかなか鋭くついてきます。また、別の留学生は、
「埼玉大学行きのバスに乗っているとき、運転手が『お降りの方はございませんか?』って言います。失礼じゃないですか?『いらっしゃいませんか?』ですよね。」
日本語の教科書で習ったのと違っていると彼らは誤用と感じます。別の留学生は、言いました。
「この間、テレビでアナウンサーが『高倉健さんがおります』って言っていました。」
 どこに行っても、聞き耳を立てている留学生に接すると、日本人の私の方が今度は緊張し始めます。自分も敬語を間違えて発している場合があるに違いないと。留学生たちは、われわれ日本人が聞き逃したりするミスを的確にとらえ、いつか質問してみようと待ち構えているらしく、意見を自由に言える時になると、先を争うように敬語の疑問をぶつけ出します。
 留学生ばかりではなく、日本人も間違える敬語の問題を今回は取り上げ、考えてみようと思います。

 敬語を使う時
 敬語が必要な時というと、まず、上下関係を示す場合です。国立国語研究所の行なった敬語意識調査でも、敬語というと、一般社会人の八割以上の人がまず上下関係を思い起こすと言っています。平成九年の文化庁の世論調査でも、「目上の人に敬語を使う」と答えた人が八六.六%でした。
 もちろん、敬語を使う時というのは、それだけではありません。何らかの恩恵を受けたい時、私たちは恩恵を与える側の人に対しても敬語を使います。たとえば、私たちが病気になってお医者さんにいく。すると、私たちは間違いなくお医者さんに対して敬語を使います。病気は治してほしいですからね。つまり、医者から恩恵を受けたいわけです。商品を売りたい人は、その会社の部長さんであっても、買う側の人に敬語を使って接します。同じ場合ですね。
それから、次にあまり親しい関係でないとき、たとえば初対面の時など、例外なく敬語を使って話します。そうでないと、馴れ馴れしくて無礼なやつだなんて思われてしまいますから。「私は、○○会社の××と申します。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」などと。それから公の場面などでも敬語を使う。親しくない人が大勢いますからね。敬語は、こんなふうに相手との間に心理的距離のある時にも使います。だから、大喧嘩をした後なんかにも、互いに気まずい雰囲気の中で敬語を使って相手に話しかけたりします。相手との間に心理的距離が生じているわけです。
じゃあ、敬語の少ない国では、初対面の時などどうするのでしょうか? 敬語の代わりに、たとえばジョークを使います。そしてうち解けていく、格式張った関係を崩していくというプロセスが見られます。その役割を、敬語が発達している言語では、敬語が担っているわけです。
 さらに、面白いのは、自分が品位ある人間だということを見せたい時にも敬語を使います。円地文子さんの小説に、『愛情の系譜』というのがあるんですが、その中でデパートのウェートレスがぞんざいな口調で注文する客に向かって、「お団子でございますか。二皿でございますね」と敬語を連発して、相手に「威厳と軽蔑」を示そうとしている場面があります。森鴎外の小説『雁』でも、奉公人を置くほどの身分にのし上がった高利貸しの末造が、妻に敬語を使わせたりして、言葉を上品にさせたと書かれています。敬語が自分の品格保持のために使われているんですね。
 こんなふうに、敬語は目上の人に対して敬意を示すためにのみ使われているわけではありません。恩恵を受けたい時、相手との間に心理的距離をとらねばならない時、自らの品位を示したい時にも、敬語は使われているんです。ですから、敬語は簡単にはなくならないだろうとは思うのですが、しかし私は、どちらかというと、敬語の体系を簡素化した方がいいと思っています。敬語には尊敬語、謙譲語、丁寧語とありますが、丁寧語を中心にして、簡素化の方向を目指していく方がいいのではないかと思っているのです。

 消えゆく尊敬語と謙譲語
 私は、四年ほど前に尊敬語の調査をしたことがあります。それで論文も書きましたが、デパートなどでは最高の尊敬語を商業言葉として、相変わらず残しているものの、一般の日常生活では、やはり尊敬語は衰退しているんです。謙譲語も同じです。敬語の歴史を見ると、初めに尊敬語、謙譲語が出てきて、その後、話し相手を意識して使う丁寧語が平安時代に出てきます。こういう流れを考えれば、最初に消え去っていくのは尊敬語と謙譲語の部類であり、最後まで残るのが、丁寧語ではないかと思っています。
 その調査では、カセットを持って街を歩きデータを収集しました。テープを起こしてみたら、ほんとに尊敬語・謙譲語の部分が失われています。デパートのネクタイ売場で録音した例では、若い女性店員が実にうまい戦略を使っていました。どういう戦略かというと、下の述語を言わないんです。「お年はおいくつで」とか「よくお似合いで」と、これで終わり、全部下がない。これは敬語をきちんと使えない場合の最高の戦略と思いました。
 一方で、逆に二重敬語が見られることです。これも、敬語がうまく使えていない場合の一現象と考えられます。私も、昔、「先ほど、○○先生がおっしゃられたように」と二重敬語を使ってしまって注意されたことがあります。「おっしゃる」だけで十分尊敬表現なのに、さらに尊敬の助動詞「れる」を付けてしまったのです。敬語はたくさん使うにこしたことはないという意識が根底にあったような気がします。外国人のタレントさんで、「行かれましたでございました」などと、やたらに敬語を使って話しているかたがいますが、きっと同じ心理なんでしょうね。
 こんなふうに尊敬語や謙譲語は、日常使われなくなってきており、また使われても誤用が多い。頻繁に使われるのは、聞き手に対する丁寧語。だとしたら、丁寧語を中心とした、簡素化された敬語の体系を考えていく方が実用的でもあるのではないかと思うのです。

 思いやりの敬語
 しかしながら、現段階の国語審議会の大勢はそうではなく、複雑な敬語体系を維持しつつ、日本語らしさの伝統を守っていこうとする傾向にあるような気がします。私も、国語審議会の一委員ですが、四年続けて敬語に関係する部会に所属していました。けれども、敬語の簡素化の方向を考えている私は、基本的な所でどうしてもずれが出てきてしまう。これ以上、敬語部会にいると、迷惑をかけそうな予感がして、少し心残りだったのですが、そこを抜け、今は日本語の国際化を考える部会の委員になっています。
 敬語というのは、価値観と密接に関わってきますから、面白いけれど、恐い面もあります。繰り返して言ってしまいますが、私は敬語をなくせなんて言っていない。丁寧語を中心にした簡素な敬語が良いと言っているんですね。もう少し、国語審議会の考え方を私なりに説明してみます。
 二一期国語審議会は、平成十年六月に『新しい時代に応じた国語施策について』という審議経過報告書を出しています。私が敬語部会の委員だったときのものです。今は、二二期ですが、二一期の考え方を踏襲し、具体例を付けていくという段階だと思います。二一期の報告書には、たとえばこう書いてあります。
丁寧語や敬語以外の敬意表現で配慮を表していこうという考え方もあろうが、尊敬語や謙譲語の適切な使用が日本の文化、国語の体系上重要であることはいうまでもない。
 私は、前の方に述べられていて否定されている方の考え方に近いんですね。さらに、報告書は、
敬語を正しく使うためには、語形の適否の問題とともに、いつ、どんな場面でだれに対して使うのかという運用面での適切さが重要である
と、述べています。つまり、敬語を適切に使うためには、
話し手と聞き手の上下、ウチ・ソト、親疎等の人間関係や使用場面の公私の別(改まりの程度)等を把握し判断する認知力が備わっている必要がある
というわけです。うわぁ、大変だって思いません? 若い人は、見た途端に卒倒したりして。まあ、冗談はさておき、相手に対する配慮を最大限行なってから、その場に最もふさわしい敬意表現で話すというのは、それはそれで大切だと思います。けれど、私はここで一つ心配がわき起こるんです。そういう配慮を十分したうえで発言せよと言われると、自分の本当に言いたいことが言えなくなってしまう恐れがあるのではないかという心配なんです。
 言いたいことを最大限効果的に表現するのに都合がいいほど単純な敬語体系なら問題ないんですが、複雑きわまりない敬意表現の中から選択してこなければならないとしたら、かえってやっかいな気がするんです。たとえば、報告書には、人に物を借りる時の表現例として、「拝借させていただけませんでしょうか」に始まり、実に三五通りの表現例が掲載されています。
 さらに、「様々な配慮と敬意表現」の例としては、「直接お目に掛かってごあいさつ申し上げるべきところ書面で失礼いたします」という表現例が出ていたり、断定・断言の主導権を相手に譲る表現例が出ている。「そろそろ……」と相手に促し、相手が「行こうか」と決定する例ですね。こういうことに気ばかり使って発言していると、大事なことが言えなくなってしまう気がして仕方がないんですね。私の杞憂に過ぎないんでしょうかねぇ。私は、言いたいことを明確に言える訓練の方が、国際化社会ではむしろ大事だと思っているんです。
 そんなわけで、私は、国語審議会の敬語部会から自然に脱落してしまったのです。でも、国語審議会の総会では相変わらず敬語の簡略化が自分は良いと思っていると少数意見に違いないのだけれど、述べています。

 国際化に対応する二つの流れ
 議論の流れっていうのは、面白いですね。外国から「日本人は言葉を論理的に使っていない」と指摘されると、私たちは一瞬、「確かに日本人は論理的に物事を説明したりしないなあ」と自己批判をして反省する。ところが、しばらくたつと、「でも、情緒的に言葉を使うところにこそ、日本人らしさがある」と言い出す人が必ず出てくる。そうすると、今度は「そうだ、それこそ、日本人的な言葉の使い方なのだ。文句あっか」とまた我々は思うわけです。
 また、ある時は、外から「日本人は、自分の意見をはっきり言わない」と批判される。そう言われると、最初のうちはそうかなと、やはりこっちが悪いように思うけれど、そのうちに「はっきり言わないのが、日本文化なんだ。世界には、自己主張をしない文化があると認めさせることが大事ではないか」という主張が起こるわけです。
 敬語についても、「敬語は外国人に分かりにくく国際化社会では通用しない。だから外国人にも分かるように簡素化しよう」という動きがありました。暫くすると、「敬語は日本の文化なのだから、ありのままを外国人にも学んでもらおう」という動きになる。今は、後者の考え方が強く出ている時期だと思います。
 私は、前者の簡素化の考え方ですが、論拠は違っています。外国人に分かりにくいから簡素化しようというのではなく、日本人自身も誤用するくらい複雑な敬語は簡素化した方がいい。自分の考えを明確に表現するのに支障を来さないくらいの簡略な敬語で良いのではないかというのが、私の意見なのです。

 敬語簡素化の意義
 具体的に言えば、丁寧な言い方か、普通の言い方か、親しみを込めたぞんざいな言い方か、この三通りぐらいの簡素化された表現でよいように思います。たとえば、「AさんがBさんに差し上げたと伺っております」とまで言わなくても、最低限「AさんがBさんに渡したと聞いています」でいいのではないか。つまり、もう話題の中の人物には敬語を用いず、客観的な事柄として表現する。謙譲語もことさらに使わなくてもいい。丁寧語さえきちんと使っていれば良しとするのです。
 実は、私は敬語にとらわれるよりも、もっと大事だと思うことがあります。それは、日本人が思ったことを明確に言ってほしいということです。
 韓国や中国からの留学生を含めたゼミをやっていますと、韓国人が一番よく発言します。次が中国人で、日本人の学生は人数が一番多いのに何も言わない。「日本語がうまくない留学生がこんなに意見を言うのに、日本人が何も言わないのはおかしいじゃあないか」と私が言うと、ようやく発言する。
 韓国の学生に聞いたことですが、韓国では、「他人に親切であろうと思うんだったら、自分の考えていることをきちんと言うこと、それが相手に対する親切です」と言って育てられているというのです。ですから、日本人も、相手に対する配慮をするあまり、これを言っては悪いかなと引っ込んでしまうのではなく、自分の考えをはっきり言う方が相手に対して親切なのだと、そう考えることが大事じゃあないかと思うのです。そういう意味でも、敬語は簡素化した方がいいということなのです。            
(この続きが読みたくなった方は拙著『新・にほんご紀行』(日経BP社、2008.3月刊)をどうぞ。上記の文章も同著からです。)