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擬音語・擬態語に魅せられる
山口仲美
2001/12.9 |
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<今回は、論文とエッセイの中間くらいの内容のものを掲載します。話し言葉で書いてあるので、読みやすいと思います。掲載場所は、『三省堂 ぶっくれっと』151号、2001年11月1日刊です。>
毀誉褒貶の言語
私は、若い時からどういうわけか擬音語・擬態語に惹かれまして、その研究を続けてきました。「ワンワン、ニャンニャンといった幼稚な言葉をどうして研究対象にするの?」とか「意味なんて調べなくても、分かるから研究するまでもないんじゃあない」と、注意していただいたこともあります。
でも、私は擬音語・擬態語に惹かれてしまった。なぜなのか? 今回は、どうして自分が擬音語・擬態語に魅せられ、研究を進めていったのかについての話をしたいと思います。
擬音語・擬態語って、人によって好き嫌いの分かれる言葉です。三島由紀夫は、擬音語・擬態語が大嫌いで、品のない言葉だから、自分は作品の中で使わないようにしていると言っています。森鴎外なんかも好きでなかったらしくって、自身の作品に擬音語・擬態語を余り使っていません。
でも、一方では、北原白秋とか草野心平、宮沢賢治のように擬音語・擬態語好きで、その効果を最大限いかして作品を生み出して行く作家もいます。草野心平なんかは擬音語・擬態語だけで詩をつくっちゃう。「ぐりりににぐりりににぐりりにに るるるるるるるるるるるるるるる ぎゃッぎゃッぎゃッぎゃッぎゃッ」とか「ぴるるるるるるッ はっはっはっはっ ふっふっふっふっ」とか。前の詩は、蛙の合唱の歌。後の詩は、後足だけで歩き出した数万の蛙の様子を歌ったもの。
こんなふうに擬音語・擬態語は、人によって好き嫌いのはっきりしている言語です。なんだか個性の強い人間に似ていますね。個性的だからこそ、毀誉褒貶相半ばするというわけです。
私はといえば、むろん擬音語・擬態語大好き人間です。第一、日本語の特色と言えるほど、分量が多い。乾亮一の調査によりますと、英語では擬音語・擬態語が三五○種類しかないのに、日本語ではなんと一二○○種類に及ぶ。三倍以上ですね。小島義郎は、広辞苑の収録語彙をもとに同じような調査をしていますが、彼によると、日本語の擬音語・擬態語の分量は英語の五倍にもなります。擬音語・擬態語は、まさに日本語の特色なんです。
昔ほど面白い
擬音語・擬態語は、現代語ですと、大抵の日本人には意味を説明する必要がありません。音が意味に直結しているから、日本語の中で育った人には意味は自明です。でも、外国人には難しいんですね。この間も、外国人留学生に「もじもじしないで聞いてらっしゃい」と言ったら、「もじもじってなんですか?」って聞き返されました。その場にいた外国人留学生たちは、口を揃えて日本人のよく使う擬音語・擬態語の意味が分からなくて困ると言っていました。日本人にとっては、現代の擬音語・擬態語は意味の自明な言葉なんですが、外国人には難しい。
でも、実は日本人にとっても、昔の擬音語・擬態語になると、意味がつかみにくい。室町時代の資料に「水がめろめろと流るるなり」とか「日がつるつると昇る」などと出てきます。「めろめろ」も「つるつる」も、現代語にもあるんですけれど、意味が違っています。現代人から見ると、なんか変っていう感じがする。でも、こういうのは、まあ昔は意味が違っていたんだろうぐらいで、まだ納得しやすい。なかには、存在そのものが信じられない擬音語・擬態語があります。
私が、一番最初にひっかかったのは、平安時代の『大鏡』に出てくる犬の声です。「ひよ」って書いてある。頭注にも、「犬の声か」と記してあるだけなんです。私たちは、犬の声は「わん」だとばかり思っていますから、「ひよ」と書かれていても、にわかには信じられない。なまじ意味なんか分かると思い込んでいる言葉だけに、余計に信じられない。雛じゃあるまいし、「ひよ」なんて犬が鳴くかって思う。でも、気になる。これが、私が擬音語・擬態語に興味をもったきっかけでした。
犬は「びよ」と鳴いていた
調べてみますと、江戸時代まで日本人は犬の声を、「びよ」とか「びょう」と聞いていたんですね。『大鏡』の写本には、濁点がありません。ですから、校訂者も「ひよ」と清音のまま記しておいた。当時の実際の発音を再現するとしたら、「びよ」にした方がいいですね。ここで、私は悟った。昔の擬音語・擬態語は、現代語と違って調べて見ない限り分からない。そして、調べてみると、意外な事実が次々に明るみに出る。これは、やりがいがある。私が、擬音語・擬態語研究にのめりこんでいった理由の一つです。
じゃあ、鶏の声はどうか? 鶏の声は、現在は「こけこっこう」ですね。でも、昔の文献を丹念にたどって行きますと、江戸時代は「とうてんこう東天紅」と聞いていたことが明らかになってくる。「とっけいこう」「とってこう」なんていう鶏の声もある。じゃあ、もっと遡った時代はなんて聞いていたのか? そもそも「こけこっこう」と聞きはじめたのは何時からなのか?
こうして動物の声を写す擬音語の歴史を追究しました。誰も研究していませんでしたから、次々に知られざる事実が明らかになってくる。ついに私は、それらのことをもとに本を書いてしまいました。『ちんちん千鳥のなく声は─日本人が聴いた鳥の声─』(大修館書店)です。十年余り前のことです。この本は、動物の声のうちでも、鳥の声に焦点を当てたものです。今でも、地味に読まれ続けています。
文化史が見えてくる
こういうことを追究しますと、文化史が見えてくる。例えば、江戸時代では梟が身近にいたから梟の鳴き声で明日の天気を占ったりしている。「のりすりおけ」(=糊を摺って用意しなさい)と聞こえるように鳴くと明日は晴れなんです。「のりとりおけ」(=糊をとっておきなさい)と聞こえると、雨なんです。実際は、区別がつかなかったでしょうけど、当時の人が梟の声を聞いて楽しんでいたことは分かる。つまり、鳥が日常的なレベルで人間に関心をもたれていた。ところが、現在はどうかといいますと、梟の声なんか聞きたくったって耳に出来ない。鳥の存在から遠く引き離された現在の文化のありようが浮かび上がってきます。
また、猿の声。『常陸風土記』では、猿の声を「ココ」と聞いています。でも、猿を見世物にしはじめた室町時代からは、猿の声は「キャッキャッ」と写すようになっています。これは、猿の声が変わったわけではないんです。「ココ」は、猿が食べ物を食べている時の満足そうな声を写したもの。「キャッキャッ」は、猿が恐怖心を抱いた時に出す鳴き声を写したものなんです「ココ」から「キャッキャッ」に変化したところには、猿と人間の付き合いの文化史が浮かび上がってきます。
場面を効果的に演出する
それから擬音語・擬態語に魅せられたのは、効果満点の使い方をした場面に出会ったことも要因です。平安時代末期の説話集『今昔物語集』は、当時の擬音語・擬態語の宝庫です。その使い方も、巧みです。例えば、「ニココニ」という擬態語があります。現代語で言えば「ニヤニヤ」「ニタニタ」って感じの語。こんな話に出てきます。
修行をつんだ坊さんがいた。師の僧が、その坊さんに「女にはもう誘惑されないか」と聞いた。坊さんは、修行を積んだ自分になにをいまさら念を押す必要があろうかと少しむっとした。さて、坊さん、外出の用ができた。川に差しかかると、女の人が溺れている。坊さんは、女の人を助けてやった。助けた時に触った女の手は、すごく柔らかい。坊さんは手を握ったまま、「私の言うことを聞いてくれるか」と聞く。女の人は「助けていただいたんですもの。どんなことでも聞かないことがありましょうか」と答える。
坊さんは女を薄の生い茂る野原に連れ出し、思いを遂げようとした。だけど、人が見るといけないと思って後ろを振り返り、前の方に見返ると、なんと師の僧を押し倒していたのだった。師の僧は「ニココニ」笑んで坊さんを見ていた。それ、お前、にょぼん女犯を犯したではないかといわんばかりの「ニタニタ」した顔。「ニココニ」がなかったら、なんということのない話で終わったかもしれない。実に擬態語が効いています。
『今昔物語集』は、場面を盛り上げるのに、擬音語・擬態語を実に効果的に利用します。他にも、真夜中、急用で人を呼びに行かなくっちゃならない。おびえながら、道を歩いていると、いきなり、「カカ」というけたたましい声が夜空に響き渡る。登場人物も読者もビクッとしてしまう場面に擬音語を使うんですよ。また、男が一人、あばら屋に泊まっている。怖くて緊張して怯えている時、小さな小さな物音がする。「コホロ」。「コホロ」が効いているんですね。サスペンス映画もどきに擬音語を使っている。一千年昔ですよ。
掛詞にする
また、平安時代の和歌を読んでいますと、たとえばこんな歌に出会います。
ひとりして 物をおもへば 秋の田の いなば稲葉のそよと いふ人のなき
『古今和歌集』の歌です。「ただ一人で物思いにふけっているので、秋の田の稲葉が『そよ』と風に靡くように『其よ(そうですよ)』と相づちを打ってくれる人もいない」といった意味。「そよそよ」の「そよ」ですが、葉擦れの音を表すと同時に相づち語の「そうよ」の意味を掛けちゃう。単純な擬音語じゃあなくて、意味を二重に働かせている。歌には、こういう擬音語・擬態語の使い方が見られます。
いがいがと 聞きわたれども けふ今日をこそ もちゐ餅食ふ人 わきて知りぬれ
これは、『宇津保物語』に出てくる歌です。「いか五十日の祝いとかねて聞き、いがいがと泣く声を聞いていましたが、今日こそ祝餅を召し上がる人をとくに知ったことですよ」といった意味の歌。「いがいが」が、当時の赤ん坊の泣き声です。現在から見ると、にわかに信じがたいかもしれませんが、「いがーいがー」としてみると、今の「おぎゃーおぎゃー」に似ていて納得できますでしょ。赤ん坊の泣き声「いがいが」に「いか五十日いか五十日」の意味を掛けているんですね。こんなふうに擬音語・擬態語を掛詞にして二重の意味をもたせる。おしゃれです。『源氏物語』には、子猫の声を「ねうねう」と写して「寝よう寝よう」の意味に掛けて用いた例もあります。こういう使い方に接すると、擬音語・擬態語は隅に置けない言語だと思って、ますますのめりこんでしまう。
人物造型に使う
今、『源氏物語』が出ましたが、『源氏物語』も只者ではない使い方をしています。擬音語・擬態語っていうのは、普通、場面を生き生きとさせるために使うんですけれども、『源氏物語』には、全く違った使い方が見られます。結論を先に言えば、登場人物を造型するために擬態語を使うことがあるのです。
例えば、『源氏物語』前編の女主人公の紫の上は、「あざあざ」という擬態語でその人柄が象徴されています。「あざあざ」というのは、色彩が鮮明で目のさめるような派手やかさを意味する擬態語。『源氏物語』初出の語ですが、紫の上という特定の人物の形容だけにこの語を用いています。
また、「けざけざ」という擬態語があります。これも、『源氏物語』初出の擬態語。すっきりと際立つ感じの美しさを表す語ですが、これは、玉蔓という美人で賢い女性にだけ使っています。「おぼおぼ」という擬態語もあります。ぼんやりしていることを表しますが、この語は正体のつかみにくい浮舟という女性にだけ使われています。そのほか、「たをたを」「なよなよ」「やはやは」も、いずれも特定の登場人物にのみ用いられています。つまり、擬態語を登場人物の人柄を象徴させる方向で使っちゃうわけです。そんなのあり?と思うほど、巧みな使い方です。
『源氏物語』では、黒髪の形容すら人物造型の方向で使われています。『源氏物語』には、黒髪の描写として「つやつや」と「はらはら」と「ゆらゆら」の三種の擬態語が出てきます。この三種の擬態語は、どれも髪の美しさをあらわすのですから、美しい髪なら、誰に使ってもいいはずですよね。事実、『源氏物語』以外の作品では、長い髪の女性なら、だれかれかまわず、三種の語をまぜこぜに使っています。ところが、『源氏物語』は、違うんです。「つやつや」で、黒髪の光沢美をたたえられるのは、女主人公格の女性に限られています。一方、「はらはら」で黒髪のこぼれかかる美しさを形容される人物は、美しいけれど脇役的な性格をもつ女性に限られる。
「つやつや」は、髪の毛自体の美しさを意味し、それは繕わなくても整い輝く天性の美です。「はらはら」は、髪の毛自体の美しさというより、衣服や枕や顔といった他の物が介在し、それとの調和によってもたらされた二次的な美です。『源氏物語』の作者は、天性の美を二次的に生み出された美よりも上位におき、「つやつや」を女主人公格の女性にのみ使用して区別しているのです。
「ゆらゆら」は、小さな子供の髪の美しさに用いています。子供の髪は短いし、子供は動きますからね。区別して使った理由がよく分かる。他の作品では、「ゆらゆら」も女性の黒髪の美しさの形容に使い、区別していません。こんなふうに、『源氏物語』では擬態語を区別して使用して人物造型までちゃっかりすませてしまう。ここまで擬音語・擬態語を生かせるのは、天才ですね。只者ではない。
こんなふうに、擬音語・擬態語は、昔に遡ると、目を見張ることばかりです。だから、私は擬音語・擬態語の虜になってしまったのです。
(やまぐち・なかみ 埼玉大学教授)
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