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広告表現の変遷
山口仲美 |
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1 はじめに
時、あたかも二〇〇〇年一二月二三日。二〇世紀もあと一週間で幕を閉じようとしている。朝日新聞(朝刊)に、「言葉より映像の世紀末」と題した記事が載った。二〇〇〇年CM総決算である。映像センターの大友良行は、こう述べている。
その年を象徴するようなキャッチコピーを生み出すテレビCM。しかし、今年はこれ といった名コピーは人々の記憶には残らなかった。視聴者の「言葉」に対する関心が 薄れ、その分、映像でじっくり見せるCMに好感が集まったようだ。
これといった名コピーがなく、映像に頼った二〇〇〇年(平成一二年)のテレビCM。では、以前はどんな状況であったのか? これからはどうなっていくのか?
この稿では、広告表現を新聞・ラジオ・テレビの三種に分け、変遷の跡を概観することにする。いずれもマス・コミュニケーションの媒体であるが、新聞広告は、視覚によって受け取られる。ラジオの広告は聴覚によって受容され、テレビのそれは視覚と聴覚の両方によって受容されるという違いがある。
また、ここで扱う広告表現は、キャッチコピーを中心にする。人々の関心を引くために、最も力の注がれる表現であり、時代の流行語になっていくことも少なくないからである。
2 新聞の広告表現
江戸時代の印刷物による広告と言えば、引札(ちらし)と本の奥付広告をあげうる程度である。幕末には、長崎と横浜を中心に外国人による英字新聞が誕生した。新聞に広告機能を持たせた最初のものは何であったか? 島崎憲一によれば、「ナガサキ・ショッピング・リスト・アンド・アドヴァタイザー」ではないかという(注1)。そこには、内外のニュース、為替相場、船舶の出入、それに一般の広告を載せていた。
明治三年(1870年)になると、日本の新聞である「横浜毎日新聞」が発行された。続いて明治五年(1872年)には、「東京日々新聞」が発行された。これらの新聞に見る初期の広告は、たとえば「図1」のごとく文字ばかりの「読む」広告であった。「図1」は、明治八年(1875年)刊行の翻訳本「暴夜物語」(いわゆるアラビアンナイト)の宣伝である。現在の新聞広告で見かける派手な書籍の広告とは大きく異なっていることが分かる。また、初期の頃は、銀行・会社の設立、馬車・汽船・汽車の開通拡張を公示する広告が多い(注2)。いわば「広告」が字義通り広く告げるの意味合いで使われていたのである。
商品にしても、「太田胃散の広告」のように、「広告」の文字が記されており、現在のようなキャッチコピーは見られない(「図2」参照)。「○○の広告」と律儀に書かれている広告は、明治二〇年代になってもまだ見られる。「歳暮年玉の高尚なる進物販売広告」(明治二三年)、「東洋無比乃大雑誌発刊広告」(明治二七年)のように。
では、一体キャッチコピーに類するものが見られるようになるのは、何時なのか? 『日本の広告美術』(注3)に掲載された図版を丹念に辿っていくと、明治三〇年頃まで下る。たとえば、「図3」の「せきたんに淺田飴 空腹にめし」(明治三八年)、「言海は学問の宝庫 言海は知識の源泉」(明治三九年)などがキャッチコピーの走りと見られる。以後このようなキャッチコピーとも見られる語句が、広告にしばしば用いられるものとなっていく。
明治時代末期からは、さらにコピーライターの草分け的な人物が出現する。「図4」は、片岡敏郎の有名なコピーのひとつである。「風さささ 浪どどど 山風の懐にも 汐風の袂にも 忘れてならぬ 森永ミルクキャラメル」。大正六年(1917年)のコピーである。大正一二年(1923年)には、岸秀雄がカルピスのコピーを作っている。「此の一杯に初恋の味がある」。後の「カルピスは、初恋の味」に連なるコピーがすでに出来上がっている。
また、大正時代末期から昭和一〇年代にかけては、漫画家の絵や、竹久夢二や高畠華宵といった有名画家の絵が、広告に使われている。「図5」は、高畠華宵による中将湯の宣伝である。新聞広告に「見る」機能を持たせ始めた広告である。キャッチコピーは、「健康への第一歩!」である。
第二次世界大戦に突入するまでの広告は、それなりに成熟してきている。有名になったキャッチコピーの例をいくつかあげてみる。
「一目散に逃げる風邪の神」(ヘブリン丸・大正一三年)、「慢性胃腸病に苦しむ人よ 是非とも アイフを服用せられよ」(アイフ・大正一三年)、「足下の文化」(福助足袋・大正一三年)、「出た!お 待兼のキング!すばらしい雑誌!」(大日本雄弁会講談社・大正一三年)、「淑女の腕に燦として輝 く色コダック」(コダック・昭和五年)、「出たオラガビール飲め」(オラガビール・昭和五年)、「一粒三 百メートル」(グリコ・昭和一一年)、「昔のひとは老けていた」(蜂ブドー酒・昭和一四年)。
終わりから二番めにあげたグリコの宣伝を覚えている方も多いであろう。片足あげて万歳姿でゴールインする選手の姿は有名であった。いずれの広告コピーも直接物を買うことを勧めるハードタイプであり、素朴でもある。
戦争中は、どんな商品でも「撃ちてし止まむ」のキャッチコピーの冠される広告になった。「撃ちてし止まむ 資生堂歯磨」「撃ちてし止まむロート目薬」なのである。
やがて日本は終戦を迎える。昭和二〇年(1945年)のことであった。まず、新聞広告で大きく変わったのは、横書き(注4)が英語と同じく左から読ませるものになったことである。それまでは、横書きでも右から読ませるものであった。見事に一変している。街の看板は、相も変わらず横書きでも右から読ませるものが多い中にあって、新聞広告だけは横書きはすべて左から読ませるようになっている。
終戦直後、いち早く復活したのは、書籍・化粧品・医薬品の広告である。だが、戦争の爪痕を感じさせるコピーが溢れている。たとえば、書籍。「絞首刑」という本の広告のキャッチコピーは、「この一書を残して著者は潜行した」(昭和二六年)。まだ戦争中の暴露作品は、危険なのである。化粧品「パピリオ」の広告は、キャッチコピーはないが、大きく次のように書かれている。
「世界的レベルまで行つていたのですが…。今、専心、元のよう或は以上に研究してま す。」(昭和二三年)
戦争によって、技術の劣化したことを嘆いている。薬品では睡眠薬「アドルム」のコピー。睡眠薬の売り出されていること自体が、戦争で疲弊した人々の心を感じさせるが、キャッチコピーは「平和の眠り」。アドルム錠剤入りの瓶を枕に眠るエンジェルの姿が描かれ、コピーはこう続く。
「疲れた人も 魂の弱い人も 苦悩の多い人も また たくましい人も このアドルム に よって 深い眠りに 落ちるといい そこだけに 人生の ほんとうの 姿があ る」(昭和二四年)
こうした戦争の爪痕を残しながらも、広告業界はたくましく成長していった。昭和二六年(1951年)には、新聞が現在と同じ一五段形式になり、新活字を使用した。昭和三〇年(1955年)以降日本人の生活は大きく変わり、家電製品も出そろい、販売された。インスタントラーメンも売り出され、近代化路線を一気に走り始めた。しかし、昭和三〇年代前半(1955年〜1959年)は、まだ商品の持つ物理的なメリットを訴える表現でよかった。
「注油の必要がない そして故障の心配もない」(富士モートル・昭和三一年)、「国産でたった一 つの自動巻腕時計」(セイコー社の腕時計・昭和三三年)
のように。
だが、昭和三五年頃(1960年頃)になると、イメージを中心にした広告表現に変化していく。商品自体に差がなくなりつつあったからである。いわゆるフィーリング広告の出現である。たとえば、
「レディータッチ」(明治チョコレート・昭和三八年)、「男は黙ってサッポロビール」(サッポロビール・ 昭和四五年)、「どういうわけか夫婦です」(キリンビール・昭和四五年)。
味に大きな差がなくなったら、イメージ合戦で行くしかあるまい。
ところが、昭和四五年(1970年)あたりから、広告が質的転換を遂げ始める(注5)。公害問題が噴出し、企業は個々の商品を売るばかりではなく、企業理念を売り始めた。何千とある商品を一つずつ宣伝していくよりは、あそこの会社の製品なら、買ってもいいという信頼を得ることのほうが早道なのである。会社の信用そのものを得るための広告に変化したのである。まずは、富士ゼロックスがそれまでの日本人の働き方を反省するようなキャンペーンを行った。
「ビジネスをビューティフルに」(昭和四六年)。
このキャンペーンは、この年の「モーレツからビューティフルへ」の言葉に象徴される生き方指針になっていった。日産も言った、「ゆっくり走ろう。ゆっくり生きよう」(昭和四六年)と。カネボウも、昭和五四年(1979年)「レディ'80」のキャンペーンを行った。「図6」はその一例である。「'80年代は女性の時代」、「真の意味で」自立する女性こそ美しいといった、新しい女性の生き方に対する提案であった。こうした時代を先取りする企業の主張は、その会社の信頼を高め、ひいてはその会社の商品の売り上げを伸ばしていく。総合的な新しい広告手法である。この傾向は受け継がれ、平成に突入した。
平成時代には環境問題が大きく浮上してきた。地球規模で環境破壊が進んでいる。企業は敏感に反応し、たとえば、次のような企業の主張を打ち出した。
「私たちの製品は、公害と、騒音と、廃棄物を生み出しています」(VOLVO・平成二年)
一見逆説的とも見える広告表現で、VOLVOはいち早く環境問題に取り組んでいる会社であることを訴えた。トヨタも負けずに訴えた、「安全なクルマになった。つまんなくなった。じゃ、困るよ。いいクルマってなんだろう」(トヨタ自動車・平成二年)。
現在は個々の商品を売るよりも、企業の考え方を売る時代なのである。では、これからの広告はどうあるべきなのか? 植条則夫(注6)が言うように、「企業の責任ある約束、正しい主張」をしていかねばなるまい。むろん、一方では新発売の商品や重点的に売りたい商品には、「これが話題の乾いちゃう洗濯機なのだ」(ナショナル「乾いちゃう洗濯機」・平成一二年)、「女のハイライン 男のタフマン」(ヤクルト「ハイライン」「タフマン」・平成一二年)などと、宣伝しなければならない。商品名が即キャッチコピーとなるという究極の方法で。
3 ラジオの広告表現
第二次世界大戦終結後、民間放送が開始された。昭和二六年(1951年)のことである。そのスポンサーになったのは、それまで新聞に地味に社名広告を新年の挨拶代わりに出す程度であった第一次産業メーカーがずらり。如何に新しいメディアに期待したかが分かる。人々は、初めて耳に訴える広告媒体を手に入れた。新聞広告よりも、約八〇年後のことである。
ラジオの広告は、アメリカの商業放送の理論と実際に関するセミナーを聴きながら、手探り状態で始められた。最初のころのコピーには美文調のものが見られた。新聞の印刷広告文をそのまま使ったからである。漢語・専門用語が羅列され、耳で聞いただけでは分からないものも多かった。また一文の長さも、二〇〇字から三〇〇字などというコピーもあった。一回聴いただけでは、とても理解できなかったであろう。初期の頃のコピーで、最優秀賞を受けたものは、次のようなものであった。
「長野県には、三万四千町歩の裸山と、二万五千町歩の崩れた山があります。これらの 山が、雨の降る度に、土や砂を押し流して、恐ろしい被害をひき起こしています。戦 争最中に無闇と山の木を伐ったあとが、まだ直らないでいるのです。皆さん、山に木 を植えましょう。緑の山は、平和の象徴です。苗の値段は、昨年よりずっと安くなっ ていますから、どんどん植えて美しい緑の山で故郷を飾りましょう。」
長野県緑化連盟のスポットCMである。平易な叙述と共感を呼ぶ内容が高く評価されたCMだという(注7)。たしかに美文調のCMの残存する中にあっては、分かりやすい優れたCMであったと察せられる。しかし、書いた文章を読み上げている感じは否めない。また、「ラザン」など、耳で聞いただけでは分かりにくい漢語もまだ混入しており、ラジオCMの模索段階であったことが分かる。
しかし、昭和三五年頃(1960年頃)になると、ラジオCMは、衝撃的な強い表現・CMソング・計算された擬音効果を積極的に取り入れ、成熟期に入っていく。昭和三八年(1963年)の第三回ACCラジオ部門で優勝したCMには、長く記憶されたCMコピー・CMソングが輩出している。「クシャミ3回 ルル3錠」の名文句、「キンカンぬって またぬって」のCMソング。
だが、ラジオのCMは、その後テレビCMに押されっぱなしの歴史を描く。テレビCM全盛期の昭和六〇年頃(1984年頃)まで、ラジオCMは、悲しいほどに低調であった。その頃のラジオCMの優秀作品の審査にあたった梅本洋一は、こう述べている。
ラジオCMを一三七本も聴いて、結局、最後まで残ったのは四本しかなかった。たったの四本。(中略)この結果は公平だったと思う。ラジオCMの質的内容が低迷しているのは明白だと思う。(『コピー年鑑 1986年』誠文堂新光社)
優秀作に選ばれたラジオCMも、たとえば次のようなものであった。
「この前、ソウル・バーで、テディ・ペンダーグラスな女が独りで、スモーキー・ロビ ンソンしていたので、お嬢さん、僕とルーサー・バンドロスしませんか? と声を かけたら、あら、あたし、アレサ・フランクリンだから、けっこうです、だって。オ レ、気分直しにサントリーホワイトしたら、なんだかマービン・ゲイな気分になっち ゃった。まったくテンプテーションなウイスキーですよ。ホワイトは、サントリーホ ワイト。冬は、あったかなホワイトでね。」
サントリーホワイトのラジオCMである。外来語を多用して、意味をぼかし面白さをねらったものと思われるが、後に引用するテレビCMのパイロットエリートSほど徹底していないために、独りよがり感が残る(注8)。
ラジオCMが良くなり始めたのは、ごく最近である。平成九年ACC賞審査委員会委員長の森俊幸は、ラジオのCMについてこう述べている。
ここ数年とても良くなっている。今年もラジオの特性を上手に生かしたものを数多く耳にすることが出来た。(『'98 AAC CM年鑑』誠文堂新光社)
カーラジオなどの普及により、ラジオは一定数の視聴者を獲得した。それがラジオCMの質の向上に連なっていったのであろう。筆者の耳に残ったラジオCMとしては、
「シートベルトをしめないでください。お願いです。シートベルトをしめないでくださ い。お願いです。シートベルトをしめないでください。心からのお願いです。シートベ ルトをしめないでください。死に神でした。ハローセーフティ。」(日産自動車「ハローセーフティ」 ・平成九年)
常識に逆らったことを言って、「何?」と視聴者の気を引き、「死に神でした」と落としているのだ。笑えたラジオCMである。快い音楽に載せて、あるいはささやきかけるようにして、視聴者の記憶にとどめようとするラジオCMが、今面白い。
4 テレビの広告表現
昭和二八年(1953年)、商業テレビが開始された。テレビCM元年である。ラジオCM開始の二年後のことである。初期の頃は、「一分や二分の作品では、腕のふるいようがない」と制作を拒否したという逸話も残っているほど、模索段階であった。映像を中心に考えることに慣れていない企画者たちは、まずコピーを作り、そこに映像をはめ込んでいった(注9)。ラジオCMの言語的思考に対して、テレビCMでは映像的思考が要求されていることを十分認識していなかったのである。
だが、昭和三五年頃(1960年頃)になると、テレビCMに特色のある優れたものが出始める。カラーテレビも出現した。昭和三六年(1961年)には、第一回ACCCMフェスティバルが開催。その時出品された日本のCMは、アメリカCMの画像の美しさ・音のシャープさに比べると数段劣っていたという(注10)。
しかし、二年後の昭和三八年(1963年)、資生堂のテレビCMと明治製菓の劇場用シネスコCFが、カンヌ広告映画祭で初入賞した。受賞は、日本のCM界の若手作家たちに勇気と希望を与え、以後次々に記憶に残る名作CMを生み出していった。その一つは、昭和四四年(1969年)のパイロットの「ハッパふみふみ」。大橋巨泉が、万年筆のパイロットエリートSを使いながら、早口で調子よく呟く。
「すぎしびのほねのすねにてはにりてら すらりぺらぺらハッパのにのに のにのにと いうのは やっぱりふみふみだろうね 僕が言いたいのはね 一八キンキラ 金ペンパ イロットエリートS ふみふみかほめほめというのはだな 書き味が最高という事 や っぱりふみふみだろうね」
最初の箇所は、音節数が五・七・五・七・七と短歌形式になっているため、調子がいい。聴く人は、リズムにつられて耳を傾ける。耳を傾けても、何を言っているのか分かりそうで分からない。「パイロットエリートS」という商品名だけは聞き取れる。そこで、次回も再び耳をすませる。「すらり」「ぺらぺら」「ふみふみ」「キンキラ」「ハッパ」など随所に意味のとれそうな語が入っているが、結局意味がつかめない。何回聴いても分からない。しかし、商品名だけは常に分かる。広告は、商品名さえ記憶させれば、大成功である。パイロットエリートSのCMは、意表を突いた発想で成功したコピーなのである。
テレビCMは、次々にヒット作を産み続け、数々の流行語を生み出していった。「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」(丸大ハム・昭和四七年)、「タバコする?」(フレンド・フィルター・昭和四八年)、「じっと我慢の子であった」「三分間待つのだぞ」(大塚食品ボンカレー・昭和四八年)、「ちかれたびー」(中外製薬新グロモント・昭和五〇年)、「ひと味ちがいます」(タケヤ味噌・昭和五〇年)、「トンデレラ、シンデレラ」(キンチョール殺虫剤・昭和五二年)、「あんたが主役」(サントリービール・昭和五三年)、「それなりに」(富士カラーフィルム・昭和五五年)、「不思議大好き」(西武デパート・昭和五六年)、「きもちンよか」(貼り薬パスタイム・昭和五七年)などと(注11)。
こうしてテレビCMは、最高潮を迎える。昭和五九年(1984年)のことである。この年は、ロスアンゼルス・オリンピックの年でもあった。民放テレビ一〇二社が「テレビばっかり、見てなさい」という異色スポットを放送した。そして一世を風靡したCMが出現した。三菱自動車ミラージュのCMに起用されたエリマキトカゲ。見たこともない珍奇なトカゲが大きな襟巻きを広げて両足で人間のように立って走り抜けていく。視聴者の目は、その姿に釘付けになった。爬虫類は、気味が悪いという常識を覆してしまう愛敬ある姿。そんなトカゲが地球上にはいたのだという驚き。これが、ブームを巻き起こした。商品と離れてCMの映像が、一人歩きしていくことを見せつけた広告でもあった。コピーまでもが、印象に残らぬほど強烈な映像であった。
この年は、サントリー・缶ビールのペンギン、タケダのベンザくんと、動物キャラクターの活躍年でもあった。ペンギンくんは歌った。「泣かせる味じゃん、サントリーカンビール」。また、TOTOのウォシュレットのCMも受け、売り上げを伸ばした。
「今朝 私はおしりから手紙を受け取りました。さあ、おしりの手紙を読んでみましょ う。“Let's Read a Osiri's Letter!” “前略 おしりの気持ちもわかってほしい。オシリ より”おしりの気持ちもわかってほしい。暖かいお湯で洗います。TOTO ウォシュ レット 良いものだけを作りたい。」
ほのぼの感のあるコピーである。また、「キンチョーどんと」も短期間であったが、目を引いた。古代人に扮した西川のりおと桂文珍が言うセリフが興味をよんだのである。
「ちゃっぷいちゃっぷい、どんとぽっちい。ちゃっぷいちゃっぷい、どんとぽっちい。」
昔の言葉を再現させ、コピーの光った広告である。「ちゃっぷい」の語は、その年の流行語にまでなった。昭和五九年には、さらにCMから流行語が次々に生み出されていった。日本ハムの「わしもそう思う」、禁煙パイプ「ハイポ」の「わたしはコレで会社を辞めました」も、流行語になった。
また、小学館の「ぴっかぴかの一年生'84総集」が、ウケに入った。北海道の子供が「一年生になれるかなあ。どうぞよろしく」と言えば、愛媛の子供は、「もうすぐ一年になるけん、保育園よりえらいがでえ」、続いて石垣島の子供は「シラホウ小学校の校長先生、マエモリヒサミです。よろしくお願いします」と頭を下げる。淡路島の子供はカメラを向けられて「フフフ…ハハハ…あかん」、秋田の子供は「おらーっ!」と続ける。各地の子供たちの素朴な演技が好感を与え、視聴者の頬がゆるんだCMである。「ぴっかぴか」は、流行語にもなった。
栄えたものは、必ず衰える。テレビCMが緩やかな下降線を辿り始めるのは、昭和六〇年(1985年)以後である。まず、CM賞への応募作品数が減りはじめた。さらに、日本のCMが海外で評価されなくなってきた。平成九年(1997年)から、日本は、カンヌ広告映画祭でグランプリなしの状態に陥る。北風勝によれば、平成七年(1995年)を境に日本のテレビCMはがくんとつまらなくなって、逆に海外がボーンと上がって来るという(注12)。稲見宗孝は、テレビ広告を「エリマキトカゲ以前」と「以後」に分けることが出来るかもしれないとさえ言っている(注13)。現に、何が言いたいか不明なCM、ひたすら早いテンポとめまぐるしいカメラアングルに頼っている内容のないCMが、溢れている。一世を風靡するコピーもなくなった。映像に頼ったCMは、何も二〇〇〇年(平成12年)に限ったことではなかった。エリマキトカゲの頃から現れ始めた兆候だったのである。
5 おわりに
以上、新聞広告・ラジオCM・テレビCMの推移をたどってきた。三者の変遷のあとは、次のようにまとめることが出来る。
戦後の一五年間(昭和三五年頃まで)は、新聞広告・ラジオCM・テレビCMの三者はそろって鰻登りの成長期。次の一〇年間(昭和四五年頃まで)は、三つの媒体がそれぞれの力を発揮していた時代である。次の一五年間(昭和六0年頃まで)は、電波媒体では、テレビCMの独り舞台である。ラジオCMは、振るわなかった。一方、印刷媒体の新聞広告は、時代の要請に応え、いち早く企業の主張を盛り込んだ企業広告となり、質的転換を図っていた。次の一五年間(平成一二年現在まで)は、テレビCMが下降線をたどりはじめ、逆にラジオCMが上昇線を描き始めた時代である。
最強の広告媒体であるテレビCMが、下降線を辿り始めた原因は何なのか? パソコンという新しい媒体が生まれてきたこともその要因の一つではあろう。しかし、筆者にはテレビCMの質にも問題があるように思われる。映像に頼りすぎている。もっと言えば、タレントに頼りすぎている。旬なタレントの魅力で売ることに慣れ、優れたコピーを生み出す努力を怠っているように思えてならない。コピーの復権、これがさしあたりテレビCMの課題であろう。映像の時代は、もはや限界に来ている。
(注)
1 島崎憲一「広告媒体としての新聞の変遷」(『日本の広告美術―明治・大正・昭和 2 新聞広告・雑誌広告』美術出版社、1967年)。
2 『図説 広告変遷史』中部日本新聞社、1961年。
3 東京アートディレクターズクラブ編『日本の広告美術―明治・大正・昭和 2 新聞 広告・雑誌広告』美術出版社、1967年。
4 厳密には、一行一字の縦書きと見るべきであるが、ここではそれらを便宜上横書きと 捉えておくことにする。
5 植条則夫『広告コピー概論』宣伝会議、1993年参照。
6 植条則夫『広告コピー概論』宣伝会議、1993年参照。
7 大伏肇「CM一二年の回顧と展望」(『ACC CM年鑑'61'62'63』誠文堂新光社、196 4年)。
8 前年の1985年に審査に当たった小野田隆雄「音は、見えてくるか」(『コピー年 鑑』1985年、誠文堂新光社)も、このころのラジオCMをこう評している。
「あいかわらず、大半のラジオCMは、ひとつのパターンの中にあった。すなわち『こ れは音でしか表現できない』ものを利用しようとする。(中略)また、音しかないか ら、しつこく同じ内容を繰り返して覚えさせようというのも、いぜんとして多い。」
9 大伏肇「CM一二年の回顧と展望」(『ACC CM年鑑'61'62'63』誠文堂新光社、196 4年)。
10 椎橋勇「第一回ACCCMフェスティバル・テレビ部門入選作品解説」(『ACC CM年 鑑'61'62'63』誠文堂新光社、1964年)。
11 鷹橋信夫『昭和世相流行語辞典』(旺文社、1986年)参照。
12 対談 北風勝・林尚司 「カンヌの風から感じること」(『広告批評』243号、20 00年11月)。
13 稲見宗孝「第二五回全日本CMフェスティバルについて」(『ACC CM年鑑'86』誠文 堂新光社、1986年)。
(やまぐち・なかみ、埼玉大学教授)
(上記論文は、『日本語学』20巻2号、平成13年2月に掲載したもの。)
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